子供用ランドセル

【連載小説】“きみの背中 ランドセルを巡る大人狂想曲” (3/3) 米内山 陽子

テーブルの上にある観葉植物 第3回「両親」

「俺はイヤだな」
あくまで冷静だと言わんばかりの穏やかな声で夫は言った。
「赤って言うのはありえないでしょ」
極めて、穏やかに。
わたしはその声が本当に好きじゃない。
小さい子どもをあやすような、諭すような、夫の声。

「なんでよ」
最後まで言い終わらないうちに、妻の弾丸のような不機嫌が僕を貫いた。
「赤いランドセルの何がいけないの」
妻はずっと銃を構えたまま僕に挑みかかる。元来の負けず嫌いと気の強さが、議論に向かない。
そんなことを言うと更に不機嫌になる。
僕は猛獣使いのように言葉を継いだ。

「いじめられたらどうするの?」
どうするもこうするもない。
イジメはいじめるやつが悪い。
そんなやつはわたしが許さない。
「でも苦しむのは本人だよ」
なんでそんなに普通にしてられるかわからない。
重大なことを話しているのに、夫の気持ちが分からない。

「じゃああの子に赤は女の色だって教えるの?」

妻は極論が好きだ。
妻から見える世界はさぞビビットでパキッとしていることだろう。
僕にとっての世界はもっと曖昧で揺らいでいるものだ。
「他に赤いランドセルを背負ってる男の子がいたら、いじめてもいいんだって教えるの?」
お願いだから、そんな目で僕を見るなよ。

「俺たちがどう思おうと、教室の空気ってものがあるだろ」
夫はいつもこうだ。
空気。それが一番怖いんじゃないか。
来客のお茶出しは女がするもんだという空気。
赤ん坊は母乳で育てるんだという空気。
不美人は嗤ってもいいんだという空気。
「その空気に逆らうだけの理由がある?」
どうして駄目なんだろう。
好きな色を、好きなように身に着けて欲しい。
それだけなのに。

「それでも、あの子にはその空気に加担して欲しくない」
妻は泣いていた。
ずるい。泣けばいいと思っている。
女性が泣くとき、僕は反射的に狼狽えてしまう。
それで買わなくていいようなものを買わされたり、無理な道理を通されたり、さんざんな目に遭ってきた。
だから僕は思う。泣くのはずるい。反則だ。

夫は黙っている。
泣くつもりはなかった。むしろ、泣きたくはなかった。
わたしにばれないように薄く、夫はため息を吐く。
「君の理想もわかるけどさ」
出た。夫は上からねじ伏せてくるときいつもわたしを「君」と呼ぶ。

「それでも、わたしはあの子に赤は女の色だなんて言いたくない」
奥歯をかみしめながら、妻は言う。
まっすぐな視線。
「色に性別なんてない」
瞳から腕が生えて僕の首を絞めているようだ。
妻の正義感は時々すごく乱暴だ。

「その君の理想を、なんであいつに背負わせるの」
頭の中に息子の顔が浮かんだ。
わたしだってわかっているつもりだ。
教室の空気。同性代の子どもの残酷さ。気付いたら始まっていて、坂道を転がるようにエスカレートする、イジメというもの。
だけど、それを逃れるための手段は、裏返すとそのまま誰かをいじめる理由になってしまうんじゃないか。
わたしは息子に虐めに遭って欲しいわけじゃない。
被害者にも加害者にもなって欲しくない。
そんな言葉が頭をぐるぐる回る。

妻は目を見張っていた。
僕は印籠を突きつけた後のような暗い達成感に包まれた。
違う。僕は妻を言い負かしたいわけじゃない。
息子のことを考えたいんだ。
妻が抱える社会に対する怒りや不満は全部とは言わないけれどわかる。
だけどそれは、自分自身で戦うべきで、息子を前線に行かせていいものじゃないだろう。
大体、あいつは何色がいいって言ってるんだ。

あの子にはまだ聞けてない、と言う声が震えないように努力した。
息子の希望の色はまだ怖くて聞いていない。
息子が無邪気に「赤!」と言ったとき、夫が当たり前のように「赤は駄目だろ」と言わないように、先に話しておきたかったのだ。
そう言うと、夫は呆れたようにわたしを見た。
「じゃこの話し合い意味ないじゃん」

「意味なくないよ」
「何色って言っても大丈夫って言ってあげたいから」
「先に話しておきたいし」
「あの子の前で喧嘩したくないし」
矢継ぎ早に妻が言う。
念を押すように僕を見る。
息子の前で喧嘩しないため。
つまり妻は、喧嘩になるかもしれないと予想していたということだ。そしてその予想は的中した。
なんだか僕は微笑ましい気持ちになって妻を見た。
「なに? 気持ち悪い」
一刀両断だ。

「とりあえずあいつに聞こうよ。でも」
わたしの名前を呼んだ後、夫は悪戯っぽく言う。
「やっぱり赤って言ったら、俺は説得したい」
「あいつに辛い思いはさせたくないし」
夫の纏う空気がなんだか落ち着いたので、わたしは冷めたコーヒーに口を付ける。
それからゆっくり口を開いた。

「好きな色を身に着けて欲しい思ってることは、言うからね」
「それが赤でも悪くないって」
「それで、あの子に決めさせよう」
マグカップを弄びながら妻が言う。
不思議だ。
僕はかつて6歳だったのに、その時に自分で何かを選び取っていたかどうか思い出せない。
それでも息子を信じる。息子の選択を信じる。
親というのはそういう仕事なのかもしれない。

「説得に失敗したらどうしようか」
夫がコーヒーのお替わりのために薬缶に水を入れながら言う。
「からかわれたときの言い返し方とか、まわりを味方に付ける方法とか、ママ友に根回ししておくとか、学校に先に相談しておくとか」
夫の口から次々に対処法が出てくる。
なんだかくすぐったいような気持ちになる。
そして同時に恐ろしくもある。
これから息子が漕ぎ出す世界には、いいことばっかりじゃないことを教えるのだ。
身を躱す方法、戦う方法を知って、生きていって欲しい。
わたしたちは時々知恵を貸しながら、その背中を見ていたい。

明日息子に聞いてみようか。
ランドセル、何色がいい?
何色でもいいよ。
好きな色にしなよ。
真夜中みたいな黒でも、深い海みたいな青でも、森みたいな緑でも、木の幹みたいな茶色でも、太陽みたいな赤でも。
きっと似合う。きみの背中に。

(了)


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米内山 陽子(ヨナイヤマ ヨウコ)
劇作家・演出家
演劇ユニット・チタキヨのメンバー
1978年生まれ
http://chitakiyo.net/